最高裁判所第二小法廷 昭和52年(オ)94号 判決 1979年7月20日
上告人
大日本印刷株式会社
右代表者
北島織衛
右訴訟代理人
和田良一
外五名
被上告人
竹本宗只
右訴訟代理人
吉原稔
外二六名
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人和田良一、同西迪雄、同渡辺修、同竹内桃太郎、同成富安信、同美勢晃一の上告理由一について
企業が大学の新規卒業者を採用するについて、早期に採用試験を実施して採用を内定する、いわゆる採用内定の制度は、従来わが国において広く行われているところであるが、その実態は多様であるため、採用内定の法的性質について一義的に論断することは困難というべきである。したがつて、具体的事案につき、採用内定の法的性質を判断するにあたつては、当該企業の当該年度における採用内定の事実関係に即してこれを検討する必要がある。
そこで、本件についてみると、原審の適法に確定した事実関係は、おおむね次のとおりである。すなわち、上告人は、綜合印刷を業とする株式会社であるが、昭和四三年六月頃、滋賀大学に対し、翌昭和四四年三月卒業予定者で上告人に入社を希望する者の推せんを依頼し、募集要領、会社の概要、入社後の労働条件を紹介する文書を送付して、右卒業予定者に対して求人の募集をした。被上告人は、昭和四〇年四月滋賀大学経済学部に入学し、昭和四四年三月卒業予定の学生であつたが、大学の推せんを得て上告人の右求人募集に応じ、昭和四三年七月二日に筆記試験及び適格検査を受け、同日身上調書を提出した。被上告人は、右試験に合格し、上告人の指示により同月五日に面接試験及び身体検査を受け、その結果、同月一三日に上告人から文書で採用内定の通知を受けた。右採用内定通知書には、誓約書(以下「本件誓約書」という。)用紙が同封されていたので、被上告人は、右用紙に所要事項を記入し、上告人が指定した同月一八日までに上告人に送付した。本件誓約書の内容は、
「この度御選考の結果、採用内定の御通知を受けましたことについては左記事項を確認の上誓約いたします
記
一、本年三月学校卒業の上は間違いなく入社致し自己の都合による取消しはいたしません
二、左の場合は採用内定を取消されても何等異存ありません
① 履歴書身上書等提出類の記載事項に事実と相違した点があつたとき
② 過去に於て共産主義運動及び之に類する運動をし、又は関係した事実が判明したとき
③ 本年三月学校を卒業出来なかつたとき
④ 入社迄に健康状態が選考日より低下し勤務に堪えないと貴社において認められたとき
⑤ その他の事由によつて入社後の勤務に不適当と認められたとき」
というものであつた。ところで、滋賀大学では、就職について大学が推せんをするときは、二つの企業に制限し、かつ、そのうちいずれか一方に採用が内定したとき、直ちに未内定の他方の企業に対する推せんを取消し、学生にも先に内定した企業に就職するように指導を徹底するという、「二社制限、先決優先主義」をとつており、上告人においても、昭和四四年度の募集に際し、少なくとも滋賀大学において右の先決優先の指導が行われていたことは知つていた。被上告人は、上告人から前記採用内定通知を受けた後、大学にその旨報告するとともに、大学からの推せんを受けて求人募集に応募していた訴外ダイキン工業株式会社に対しても、大学を通じて応募を辞退する旨通知し、大学も右推せんを取り消した。その後、上告人は、昭和四三年一一月頃、被上告人に対し、会社の近況報告その他のパンフレツトを送付するとともに、被上告人の近況報告書を提出するように指示したので、被上告人は、近況報告書を作成して上告人に送付した。ところが、上告人は、昭和四四年二月一二日、突如として、被上告人に対し、採用内定を取り消す旨通知した。この取消通知書には取消の理由は示されていなかつた。被上告人としては、前記のとおり上告人から採用内定通知を受け、上告人に就職できるものと信じ、他企業への応募もしないまま過しており、採用内定取消通知も遅かつた関係から、他の相当な企業への就職も事実上不可能となつたので、大いに驚き、大学を通じて上告人と交渉したが、何らの成果も得られず、他に就職することもなく、同年三月滋賀大学を卒業した。なお、上告人の昭和四四年度大学卒新入社員については、同月初旬に入社式の通知がなされ、同時に健康診断書の提出が求められた。右入社式は、同月三一日に大学新卒の採用者全員を東京に集めて行われたが、式典は一時間余りで、社長の挨拶、先輩の祝辞、新入社員の答辞、役員の紹介、社歌の合唱等がなされた。式典に集つた新入社員は、その日、式典終了後、卒業証明書、最終学年成績証明書、家族調書及び試用者としての誓約書を提出し、東京で約二週間の導入教育を受けたのち、上告人の各事業部へ配置され、若干期間の研修の後それぞれの労務に従事し、上告人の定める二か月の試用期間を過ぎた後の同年六月下旬に、更に本採用者としての誓約書を保証人と連署して提出し、社員としての辞令書の交付を受けた。上告人における大学新規卒業新入社員の本採用社員としての身分取得の方法は、昭和四四年の前後を通じて、大体右のようなものであつた。
以上の事実関係のもとにおいて、本件採用内定通知のほかには労働契約締結のための特段の意思表示をすることが予定されていなかつたことを考慮するとき、上告人からの募集(申込みの誘引)に対し、被上告人が応募したのは、労働契約の申込みであり、これに対する上告人からの採用内定通知は、右申込みに対する承諾であつて、被上告人の本件誓約書の提出とあいまつて、これにより、被上告人と上告人との間に、被上告人の就労の始期を昭和四四年大学卒業直後とし、それまでの間、本件誓約書記載の五項目の採用内定取消事由に基づく解約権を留保した労働契約が成立したと解するのを相当とした原審の判断は正当であつて、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。
同二について
本件採用内定によつて、前記のように被上告人と上告人との間に解約権留保付労働契約が成立したものと解するとき、上告人が昭和四四年二月一二日被上告人に対してした前記採用内定取消の通知は、右解約権に基づく解約申入れとみるべきであるところ、右解約の事由が、社会通念上相当として是認することができるものであるかどうかが吟味されなければならない。
思うに、わが国の雇用事情に照らすとき、大学新規卒業予定者で、いつたん特定企業との間に採用内定の関係に入つた者は、このように解約権留保付であるとはいえ、卒業後の就労を期して、他企業への就職の機会と可能性を放棄するのが通例であるから、就労の有無という違いはあるが、採用内定者の地位は、一定の試用期間を付して雇用関係に入つた者の試用期間中の地位と基本的には異なるところはないとみるべきである。
ところで、試用契約における解約権の留保は、大学卒業者の新規採用にあたり、採否決定の当初においては、その者の資質、性格、能力その他いわゆる管理職要員としての適格性の有無に関連する事項について必要な調査を行い、適切な判定資料を十分に蒐集することができないため、後日における調査や観察に基づく最終的決定を留保する趣旨でされるものと解され、今日における雇用の実情にかんがみるときは、このような留保約款を設けることも、合理性をもつものとしてその効力を肯定することができるが、他方、雇用契約の締結に際しては企業者が一般的には個々の労働者に対して社会的に優越した地位にあることを考慮するとき、留保解約権の行使は、右のような解約権留保の趣旨、目的に照らして、客観的に合理的な理由が存在し社会通念上相当として是認することができる場合にのみ許されるものと解すべきであることは、当裁判所の判例とするところである(当裁判所昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日大法廷判決、民集二七巻一一号一五三六頁)。右の理は、採用内定期間中の留保解約権の行使についても同様に妥当するものと考えられ、したがつて、採用内定の取消事由は、採用内定当時知ることができず、また知ることが期待できないような事実であつて、これを理由として採用内定を取消すことが解約権留保の趣旨、目的に照らして客観的に合理的に認められ社会通念上相当として是認することができるものに限られると解するのが相当である。これを本件についてみると、原審の適法に確定した事実関係によれば、本件採用内定取消事由の中心をなすものは、「被上告人はグルーミーな印象なので当初から不適格と思われたが、それを打ち消す材料が出るかも知れないので採用内定としておいたところ、そのような材料が出なかつた。」というのであるが、グルーミーな印象であることは当初からわかつていたことであるから、上告人としてはその段階で調査を尽くせば、従業員としての適格性の有無を判断することができたのに、不適格と思いながら採用を内定し、その後右不適格性を打ち消す材料が出なかつたので内定を取り消すということは、解約権留保の趣旨、目的に照らして社会通念上相当として是認することができず、解約権の濫用というべきであり、右のような事由をもつて、本件誓約書の確認事項二、⑤所定の解約事由にあたるとすることはできないものというべきである。これと同旨の原審の判断は正当であつて、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。
同三について
所論の点に関する原審の判断は、原審が適法に確定した事実関係のもとにおいては、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(木下忠良 大塚喜一郎 栗本一夫 塚本重頼 鹽野宜慶)
上告代理人和田良一、同西迪雄、同渡辺修、同竹内桃太郎、同成富安信、同美勢晃一の上告理由
一、原判決は、まず、上告会社が被上告人に対してした採用内定通知によつて労働契約が成立したとの判断を前提として、被上告人の請求のほとんどすべてを認容している。すなわち、原判決は、「以上に摘示・認定した事実に、終身雇用制度の下におけるわが国の労働契約とくに大学新卒業者と大企業とのそれにみられる公知の強い附合(附従)契約性を合わせ考えれば、前記経過の下に前記形態で採用内定が行なわれた本件においては、控訴人会社からの募集(申込の誘引)に対し、被控訴人が応募したのが労働契約の申込みであり、これに対する控訴人会社よりの採用内定の通知は右申込みに対する承諾であつて、これにより(中略)控訴人と被控訴人との間に、前記誓約書における五項目の採用内定取消理由に基く解約権を控訴人会社が就労開始時まで留保し、就労の始期を被控訴人の昭和四四年大学卒業直後とする労働契約が成立したと解するのが相当である。」と判示する。しかしながら、右判断には、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違背、経験則違反ないし理由不備の違法がある。
(一) 採用内定の段階においては、被上告人が上告人会社において有する地位、受ける給与、勤務時間、勤務場所等、労働契約の内容である労働条件は、なんら明らかにされておらず、労働条件について当事者間に合意が成立したと認めるべき事実はない。原判決自体、「採用内定の段階においては、就労開始後に関する契約内容の詳細、労働条件等については、不確定の要素の多いことは否定しえない」といつているのである。
従つて、もし、上告会社が、採用内定通知をすることによつて労働契約が成立したものとするならば、上告会社は、労働条件を明らかにすることなく労働契約を締結したものとして、労働基準法第一五条第一項の違反を犯したことになろう。また、採用内定の段階において、すでに労働契約が成立したものとするならば、後日、入社式の際に、会社側から新入社員に対して試傭契約の内容の説明がなされ、新入社員が、試傭契約の内容を明示した試傭誓約書(乙第三号証)にサインの上、これを会社に提出することの意味の説明が不可能となる。
このような不合理は、採用内定通知によつて労働契約が成立したとする原判決の判断に無理があることに由来する。採用、すなわち労働契約の締結は、右の試傭誓約書の提出によつて完成し、大学新卒者は、ここではじめて上告会社の試傭社員たる労働契約上の地位を取得するのであつて、採用内定は、ここに至るまでの一段階に過ぎないのである。
(二) 採用内定の段階においては、労働条件がなお未確定であつても、その段階における労働契約の成立を認定しうる根拠として、原判決は、労働契約の附合契約性を挙げる。
しかし、附合契約の特質は、契約の内容が当事者の一方によつて予め決定されていて、相手方は、これを一括して受諾するか、または契約を締結しないかの自由を有するに過ぎず、また、ひとたび契約が成立した以上、契約締結の際における相手方の契約の内容についての知、不知にかかわらず、相手方がその契約に拘束されるというところにあるのであつて、附合契約が、契約として当事者に対する拘束力をもつためには、少なくとも、契約の内容が、契約締結の際に確定していることが必要である。労働契約が附合契約性を有するということは、採用内定の段階において労働契約が成立したとする原判決の判断を正当化する根拠とすることはできない。むしろ、契約締結に際して、契約内容に不確定のものを残しながら、これを後日における使用者の決定に一任することとして、労働契約を締結するようなことこそ、まさしく労働基準法第一五条一項の禁止するところである。
(三) 原判決は、また、採用内定通知によつて労働契約が成立したことを説明するために、大学卒業予定の学生が、会社の求人募集に応じて入社試験を受験したことが労働契約の申込みであるとする。
ところで、もし、入社試験受験が労働契約の申込みであるとするならば、受験者は、上告会社から承諾(原判決によれば採用内定)の通知を受けるのに相当な期間、申込みの取消しをすることができないという法律上の拘束を受けるはずである(民法第五二四条)。しかしながら、学生が入社試験を受けたことによつて法律上の拘束を受けるとすることは実情に反するし、学生は、会社からの採用内定通知(原判決によれば、労働契約の申込みに対する承諾である。)を受けた後でも、内定の辞退(申込みの取消し)をする自由を有するのである。滋賀大学、その他の地方大学が、学生の就職斡旋に際して採用しているという二社制限・先決優先の方針のもとにおいても、学生が二社の入社試験を受験し、二社から採用内定通知がなされるということが起りうるのであつて、この場合には、学生は、少なくともいずれか一社の内定を辞退せざるをえないのである。契約の申込みに対し、相手方の承諾があつたにもかかわらず、なおかつ申込みの取消しができるというようなことは、全くの不合理であつて、入社試験の受験が労働契約の申込みであるとする原判決の判断は、無理なこじつけというべきであろう。
もつとも、原判決は、上告会社がした採用内定通知を、この通知書に同封された内定誓約書(乙第二号証)に署名押印の上、これを被上告人が、指定期日までに、上告会社に送ることを停止条件とする承諾の意思表示であると構成するのであるが、実際上は、採用内定を受けた学生が、内定誓約書(乙第二号証)を会社に提出した後においても、内定を辞退する例が少なくなく、求人側としては、追加募集をしているのが実情であることを考慮すれば、採用内定通知を、内定誓約書の提出を停止条件とする承諾の意思表示であるとする法律構成も、採用内定通知によつて、労働契約が成立するとの結論を予め想定し、この結論を理由づけるために案出された説明の技巧に過ぎない。
原判決は、また、採用内定後、上告会社が被上告人に送付した「近況報告について」「大日本印刷株式会社の近況」等の文書(甲第七号証〜第九号証)により、上告会社が、被上告人を、単なる採用予定者としてではなく、被上告人が「当然に」上告人会社の従業員となるものとの意識を有していたと認定するのであるが、このような文書の送付は、内定者は「通常」従業員となるであろうという認識の下になされるに過ぎないものであることは常識に属することであつて、原判決のかかる認定は、まさに、経験則に違反するものといわざるをえない。
(四) 大学新卒者の採用という一連の手続きの過程のなかで、求人側と学生側との間に、なんらかの合意と呼ばれるべきものが成立するもつとも早い時期を求めるならば、それは、学生が、求人側の求めに応じて、本件における乙第二号証のような内定誓約書を会社に提出した時点とすべきであろう。この時点において、会社は、一定の原因による解除権を留保した上で、当該学生が、学校卒業の上、これを採用することを約束し、学生は、会社側による解除権の留保を受諾して、学校卒業の上、会社に入社することを約束するのである。
しかしながら、このようにして成立した合意においては、採用後の会社における本人の労働契約上の地位も明らかにされておらず、賃金、労働時間等の労働条件についても、なんらの約定もなされていないのであるから、右の合意は、労働契約そのものではなく、解除権留保付の労働契約の予約と解すべきである。
(五) 原判決は、採用内定の段階においては、せいぜい労働契約の予約が成立したに過ぎないとする上告人の主張を排斥して、「控訴人会社においては、採用内定をしても後の調査により不適格と判断された場合には自由に内定の取消ができると理解していたことがうかがわれないではないが、かりにそのような理解のもとに本件採用内定の通知をしても、それは、控訴人会社の内心の意思ないし希望」に過ぎないとする。しかし、被上告人が、採用内定によつて、上告会社への採用が確定したと信じたとしても、これまた同様に、被上告人の単なる内心の願望に過ぎないともいうことができるのである。
原判決は、さらに、「会社において控訴人主張のような労働契約の予約であつて会社側としては違反しても損害賠償責任を負うことがあるにすぎない旨を明示した採用内定の通知をした等の場合には、当事者間に労働契約の予約が成立するにすぎないこともありうる。」として、あたかも、採用内定は労働契約の予約であるとの趣旨が、なんらかの形で会社側によつて明示されていない限り、原則として、労働契約の成立であると解すべきであるかのような説明をし、しかも、このような解釈は、「当事者の意思の客観的合理的な解釈」から導き出される結論であるとするのである。
しかしながら、ある法律関係を「予約」と解するか否かは法律判断の問題であつて、当事者が「予約」と表現したか否かに左右されるとすることは不当であるのみならず、さらに、「損害賠償責任を負うことがあるに過ぎない旨」の明示等を、予約成立の要件として要求することは、全く根拠のないことである。しかも、原判決は、当事者の意思の客観的合理的な解釈から、如何にして採用内定即労働契約の成立という結論が生れるかの理由については、単に、「前認定の状況・経過のもとで前認定の態様でなされた採用内定」というだけであつて、なんら首肯するに足りる具体的な説明はされていないのである。
(六) 採用内定という事実が、法的に如何なる意義を有するかということは、当事者の意思の客観的、合理的な解釈の問題であるとしても、この意思解釈は、客観的事実に基づくと同時に、大学新卒者の採用という一連の手続過程における求人者側と求人応募者側との利害を、公平に考慮した上でなされるべきであつて、求人者たる企業を社会的強者とし、求人応募者たる大学卒業予定者を社会的弱者とする単純素朴な観点から、求人応募者の利益を保護することに急なるあまり、事実を歪曲し、求人者側の利害を不当に無視するようなことがあつてはならない。すなわち、求人応募者の採用内定通知に対する信頼が正当に保護されなければならないのと同様に、大学新卒者の採用にあたつて、優秀な人材の確保を図るとともに、企業にとつて信頼のできない人物の入社を防止するについて、求人者側の有する利害も正当に評価されなければならないのである。採用内定によつて労働契約が成立するとする原判決の見解については、結局、これを首肯するに足りるなんらの理由説明もなされていないことに帰するのであつて、右見解は、求人応募者、しかも、採用内定を取消された求人応募者の利益を保護することにのみ捉われ、客観的事実を枉げて、強引に労働契約の成立を肯定したものという外はない。
本件における被上告人のような採用内定者は、内定の段階では、まだ学生であつて、勉学中の身であり、現実に会社のために労務に服しうる状態にはないのであるから、採用内定によつて、労働契約関係が成立し、内定者が、学生の身分のままで会社の被用者たる地位を取得したと解することは、なんらかの特別の事情がない限り経験則に違反するものというべく、また、当事者の意思にも反するものといわなければならない。
(七) 被上告人の本訴請求は、採用内定によつて、上告会社と被上告人との間に労働契約が成立したことを前提としていることは上述した通りである。上告会社がした採用内定取消しの当否は、採用内定という事実の法律的性質が決定された後の第二段の問題である。もし上告会社が主張するように、採用内定によつて、単に労働契約の予約が成立したに過ぎないとするならば、たとえ上告会社がした採用内定取消しが合理的理由を欠き、不当であつたと仮定しても、せいぜい予約の不当破棄による上告会社の損害賠償責任が問題となるに過ぎず、しかも、上告会社がした採用内定取消しを不当とする原判決の判断が誤りであることは、さらに後述する通りである。
これを要するに、採用内定によつて労働契約が成立したとする原判決の判断には、労働契約の成立に関する法律の解釈適用を誤つた違法があり、または経験則違反もしくは理由不備の違法がある。従つて、原判決を破棄し、被上告人の本訴請求の全部を棄却し、または少なくとも事件を原審に差し戻すべきである。
二、原判決は、かりに判示のような契約関係の存在を仮定した場合においても、採用内定段階における解約権行使の効果について誤りがあり、法令に違背するものといわざるをえない。
(一) すなわち、原判決は、本件採用内定取消通知をもつて、上告会社に留保された解約権に基づく解約の申し入れとみたうえ、その解約権が乙第二号証第二項①ないし⑤の事由がある場合に限られ、さらに⑤にいう「その他の事由によつて入社後の勤務に不適当と認められたとき」とは「①ないし④より類推される後発的事実を理由とする等の合理的な場合に限られる」とし、上告会社の主張する事実をもつて「採用内定以後に判明したとされるものはいずれも具体性に欠け、解約の事由として合理性を有するとはいえない」と判示する。
しかしながら、原判決がその判断の前提とした上告会社主張の事実(事実欄第二の二の(一)記載)は、決して原判決が要約するように「グルーミーな印象なので当初から不適格と思われたが、それを打ち消す材料が出るかも知れないので採用内定としておいたところ、そのような材料が出なかつた」などという単純なものではなく、このような事情に加えて被上告人が採用試験に際して明らかにしたところが事実に反していることが判明したのみならず、個人的信頼性の評価についても疑念を抱かざるをえないような情報がもたらされ、被上告人の「信頼性に対する疑惑を深める結果となつた」ことによるものである。
ところで、採用内定段階における両当事者間の法律関係については、上述の通り解すべきものであるが、たとえ原審判示のような労働契約として理解する余地があるとしても、その実質を直視する限り、未だ労務の提供、賃金の支払という双方の基本的債務を履行する余地のない段階に属することは否定しえないところであり、さらに被上告人が管理職要員たる大学卒業予定者として、終身雇傭を予定して入社する者であることを考えれば、両当事者間において十分な信頼関係の存在が期待されることは、当然のことであり、もしこの信頼関係を維持しえないと考えられる事態に立ち至つたときは、これが契約関係を解消しうる合理的事由に該当するといわなければならないはずである。このことは両当事者についていいうることであつて、ひとり使用者のみ、未だ確定的に採用するに至つていない段階にありながら、信頼感の欠如を意識しつつなお採用を強制されるいわれはないのである。原判決の指摘する乙第二号証の第二項⑤すなわち「その他の事由によつて入社後の勤務に不適当と認められたとき」なる条項は、かかる基本的要請を無視して解しえないはずである。
(二) そして、このような立論は、最高裁昭和四八年一二月一二日大法廷判決(民集二七巻一一号一五三六頁)に照らしても是認さるべきである。すなわち、同判決は、「企業における雇傭関係が、単なる物理的労働力の提供の関係を越えて、一種の継続的な人間関係として相互信頼を要請するところが少なくなく、わが国におけるようにいわゆる終身雇傭制が行われている社会では一層そうである」ことを明確にし、同事件において問題となつた試傭契約中の留保解約権に基づく解雇について論じているのであるが(本件の場合と異なりすでに大学を卒業し就労開始後のことに属することは指摘するまでもない)、この場合についてさえ、解約権の留保は「大学卒業者の新規採用にあたり、採否決定の当初においては、その者の資質、性格、能力、その他上告人のいわゆる管理職要員としての適格性の有無に関連する事項について必要な調査を行ない、適切な判定資料を十分に蒐集することができないため、後日における調査や観察に基づく最終的決定を留保する趣旨でなされるものと解される」としてその合理性を肯定し、この留保解約権に基づく解雇について、「これを通常の解雇と全く同一に論ずることはできず、前者については、後者の場合よりも広い範囲における解雇の自由が認められてしかるべきものといわなければならない」と判示するのである。そして、この判示を、本件に参照すれば、本件における採用内定取消は、たとえその前提となる法律関係を原判旨に即して考える場合においても、通常の解雇とは異なつた広汎なもの、すなわち右最高裁判決が試傭契約について判示するところよりもさらに広汎なものとなることは、同判旨からも正当に推論されるところであつて、その基本は、右最高裁判決も指摘する「継続的な人間関係として相互信頼」を維持しうるか否かの点にかかるものといえるのである。
(三) このようにみてくると、たとえ採用内定取消をなしうる場合が乙第二号証掲記の各条項に限定されると考えるとしても、⑤は、右の趣旨に即して解すべきであつて、原判決の論旨は、採用内定段階という実態を無視した誤つた解釈に基づくものといわざるをえず、従つて被上告人のなした採用内定取消の効果を否定し現在両当事者間に有効な労働契約関係が存続するとする原判決には、この点においても、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背があるといわざるをえない。
三、さらに原判決は、被上告人に対し、その慰謝料及び弁護士報酬に関する損害賠償請求を認容した点において、法令違背または理由不備の違法がある。
(一) まず原判決は、「控訴人会社が正当な理由もないのに、被控訴人に対する採用内定が取り消されたとして、被控訴人に従業員たる地位を認めないため、被控訴人が、大学を卒業しながら他に就職することもできず、本件訴訟を提起、維持しなければならなかつたことについて、相当な精神的苦痛を重ねて来ていることは推察に難くなく、その苦痛は、本訴において被控訴人の主張が認容され、就職時以降の賃金相当額の支払いを受けたとしても完全に治癒されるものではないと考えられる」として金一〇〇万円の慰謝料の支払いを認容した。しかしながら、そもそも債務不履行について精神的損害を認めうる場合がきわめて例外に属することはいうまでもないが――ドイツ民法第二五三条などは原則としてその賠償を認めない――とくに被上告人の本訴請求は、上告会社に対する契約関係の存在を前提として、賃金等の支払を請求するもの、すなわち金銭債務の履行とその不履行に基づく損害賠償を請求する事案であることは明白であるから、右不履行に基づく損害賠償については、民法第四一九条により、その額を法定利率によつて定めれば足り、それに加えて慰謝料を算定して加算する余地はないものといわなければならない。
また、かりに原判決が右慰謝料を不法行為に基づく損害賠償と理解したのであるならば、不法行為の成立要件の存在について十分な理由を説示すべきである(上告会社の所為が不当な応訴として不法行為を構成するようなものでないことは、後記のとおり明白である。)。
(二) さらに原判決は、「その弁護士に対する報酬等は金五〇万円を下らず、右金額は、控訴人が不当に本件採用内定取消をしたことに基因し、さらに、控訴人が被控訴人の請求に対し故意又は過失により不当に抗争したこと(被控訴人の主張はこの趣旨を含むと解される。)と相当因果関係のある損害と認められる」として被上告人の弁護士費用の請求を認容する。しかしながら、原判決が本件における上告会社の応訴を目して「不当に抗争した」とすることは、従来の判例、学説等の分析、検討を経ない誤つた独断であり、かくしては、債務不履行を主張される当事者は、結果的に敗訴する限り、「不当に抗争した」ことになることに帰し、その解釈が法令に違背することは明らかであるといわざるをえない。
この点について少しく詳論すれば、近時最高裁判例により不法行為に基づく損害について弁護士費用との相当因果関係を認める余地があることが明らかにされるに至つたとはいえ(昭和四四年二月二七日第一小法廷判決、民集二三巻二号四四一頁)、これは決してすべて敗訴当事者に相手方の支出する弁護士費用を負担せしめることを認めるものでないことはいうまでもない。とくに債務不履行に基づく損害賠償請求と弁護士費用との関係については、右判例はなんらふれるところはなく、これを積極に解する学説においても、応訴が別個に不法行為を構成することを要件とし、しかも応訴が不法行為を構成する意味において違法であるとするためには、かなり慎重な考慮が必要で、一般的にいえば争うべき正当な根拠がないことを知りながら、いわば応訴の自由を濫用して徒らに相手方に損害を与えるような事情が存在しなければならないことを指摘し(末川・民商法雑誌一五巻四号八一頁、二〇巻一号一九頁、同二号四九頁等)、あるいは、違法性が強度の場合ないしは明瞭な場合にのみ不当抗争が違法性を帯びるとし(加藤・不法行為二二三頁)、さらには、債務者が応訴して争うのも当然だと認められる事情がない場合に限り債務不履行から生ずる損害とする(我妻・新訂債権総論一二七頁)等、その要件について配慮をする必要のあることが指摘されているのである。
このような判例、学説の大勢をふまえて、本件事案を考察するならば、上告会社の応訴が「故意又は過失により不当に抗争した」などと断ぜられるべきものでないことは明らかである。現に、原判決は、本件事実関係については、上告会社が「採用内定を何ら留保等の附されていない採用の決定(労働契約の成立)と区別して考えたことも首肯できる」とさえ認定しているのであるから、上告会社の応訴を不当とするのは、右の認定とも矛盾する。原判決は、この点においても、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背があるから、破棄さるべきである。